2014年11月17日月曜日

ロイヤルオペラ「ドン・ジョバンニ」演奏会

東京文化会館1992.7.9

作曲:モーツァルト

ドン・ジョバンニ:トーマス・アレン
指揮:ベルナルド・ハイティンク

管弦楽:ロイヤル・オペラハウス管弦楽団
合唱:ロイヤル・オペラ合唱団

配役:
レポレロ/クラウディオ・デズデり
ドンナ・アンナ/キャロル・ヴァネス
ドン・ジョヴァンニ/トーマス・アレン
騎士長/ロバート・ロイド
ドン・オッタビオ/ハンス・ペーター
シェルリーナ/マルタ・マルケ―ズ
マゼット/プリン・デルフェル

稀代のプレーボーイ・ドン・ジョバンニは、数々の悪行の末地獄の業火にのみ込まれる。この音楽の多彩さは、モーツァルトの天分無しでは生れぬ作品だ。

「これが恋人のカタログ」のユニークさ、「シャンパンの歌」、「ぶってよ、マゼット」のアリア、石造の騎士の歩み、等々このオペラの楽しみ方は尽きることが無い。このモーツァルトは、かなり難解な音ずくりをしていて、カラヤンは「ドン・ジョバンニ」の指揮を最後にまわした。因みにオペラ指揮ではカラヤンの代表作となった。

また、吉田秀和さんは、「フィガロ」よりも「ドン・ジョバンニ」がモーツァルトのオペラの最高作ではなかろうかと論じ、次のように書いている。
<なんと凄い音楽だろう!音楽の極めて高度な充実と、数あるこの天才のオペラの中でもとびきり上質な演劇的な深みを湛えた「ドン・ジョバンニ」をこれほど真正面から、これがもつ甘美と苦渋、死と愛が肌を合わせている音楽を鳴り響かせているのに成功したのは奇跡に近い。>と。

永年積み上げられた英国国立オペラの伝統の厚みが迫ってくる上演であった































2014年11月14日金曜日

第1部・・・私と音楽

2014年11月12日水曜日

私の音楽風土

そのⅠ・・・青春時代

「ベートーヴェンは、バックハウスがいいネ」
この一言が頭に残った。小学校低学年の私に、友人が言った言葉だった。 当時ベートーヴェンの名は知っていたが、バックハウスがピアノの巨匠であることなど名前も知らなかった。自宅では、手回しの蓄音機があり、鉄針で童謡を歌っていた頃だ。

未知の世界への興味が,誘惑となり、音楽が生活の一部に入ってきた。
上京し、大学生となった私は、当時盛んに催し物をしていた「東京労音」に会員登録した。本部が有楽町のガード近くにあり、クラシック音楽のLPを1週間無料で貸してくれるのを利用し、傷だらけのLPを自宅のプレーヤで聴きつずけた。たしか・・・名盤100選(野村氏)という本に従っていた。

私の音楽の旅の源流はこうして生まれ、土壌としての身体に浸み込んだらしい.。

先ずモーツアルトが好きになった。成立初期の{日本モーツアルト協会」のK.405会員となった。モーツアルト協会は、会員数が626名(モーツアルトの生涯作品数)で、世界各国にもある国際組織である。、1ヶ月に1回例会があり、ナマの音に接する機会が増えた。またN響の定期演奏会の会員にもなり、スウィトナー指揮のモーツァルトに聴き惚れた。

蛇足だが、妻も両会に入会しており、日本モーツアルト協会には私より早く入会していたことが結婚後判明した。「音楽は私の方が先輩ョ」といまだに威張っている。同じ会場で同じ音楽を聴いて育って(?)いたとは!そんな事を知らずに結婚した。・・・嗚呼、世間は厳しいし、狭いナ・・・

ナマの音楽といえば学生時代、神楽坂に下宿していたが、私のレコードの音が通路に漏れていたらしい。通行人の一人に、近くに住む高名の作曲家のお嬢さんがいて、音楽好きの学生ということで、ご自宅に招待され食事を頂いた。爾来その作曲家へ来る招待券が私に回され、私が代理を務め、演奏会に行き、耳をこやした。懐かしい思い出である。何時しか音楽を聴くことが生活の一部となった。

識者丸山真男はいう。「学問的真理の無力さは、北極星の無力さと似ている。北極星は道に迷った旅人に直接には手を取って導いてはくれない。しかし、北極星はいかなる旅人にも、ある方向を示すしるしとなる。旅人は自らの決断と責任で自己の途を求める。」と・・・(丸山真男著;自己内対話より)

私の人生の標の一つを、天空の北極星としての音樂に見出したい。私の命の通奏低音として・・・という意識が生まれたのは、だいぶん後のことであった。


        (モーツァルトの影絵)
そのⅡ・・・モーツアルトへの巡礼


1997年 モーツアルトの二つの墓に献花し、永年の想いを果たした。
最初に、ステファン聖堂の裏にあるフィガロハウスにいったが、公開日でなく、玄関で引き帰った。
別の日、予て知己のキャサリン嬢(ウィーン大学生、現在は弁護士)に案内され、墓参し、献花を果たした。

中央墓地のモーツアルトの墓に献花する
まず、モーツアルトが埋められたとされるマルクス墓地で献花した。
マルクス墓地は、ウィーンに住むキャサリン嬢も行ったことがなく、モーツアルトの埋葬実話も知らないという。訪れる人は少ないと推察した。
記念墓地の中央墓地は、訪れる人は多い。ここには、ウィーンに縁のある音楽家の墓が夫々のデザインで並んでいて、楽しい墓地だ。これらの音楽家の曲の多様性を暗示するかのように多様である。それにしても、マルクス墓地のモーツアルトは寂しく感じる。死の直前まで、弟子ジェスマイァーに口述しながら、レクイエムを作曲し完成、そしてレクイエムは、自身のための最後の曲となった。


雨中、見送り人は皆無で、共同墓地に埋められたのである。(その日は晴天であったらしいことが、最近の研究で判明した)
ベートーヴェンは、2万人のウィーン市民に見送られ国葬のように、その一生を終えたのに!
マルクス墓地の記念碑と墓 


初めてモーツアルトのあまたの住所を調べあげようとしたヴルツバッハの言葉を借りれば、「聖マルクス墓地とゆう名の最後のもっとも狭い住居へ」移って行ったのだった。


「モーツアルトは、この地上の客にすぎなかったということはある程度真実である。このことは最も高い、最も精神的な意味で妥当である。
彼に関する地上的なものは、何枚かのみじめな肖像画のほかには残っていないし、デスマスクもすべて壊れてしまったということと共に象徴的で、いっさいの混沌たる地上性の克服を意味し、純粋な音響のみが残されている・・・そしてそれは未来永劫に消えさることはないだろう。」--(アインシュタイン;「モーツアルト」より引用)

この日は、小雨の一日であった。夜ウィーン・オペラを鑑賞し、翌日電車でモーツァルトの生誕地ザルツブルグに向かった。


2014年11月10日月曜日

モーツァルトを訪ねて

ウィーンで、中央墓地とマルクス墓地で墓参を果たして、
ザルツブルグに行った。

ルツブルグでは、生家を見学、ホ―エンザルツブルグから街を展望、ザンクトペーター教会、バーム広場からモーツアルト広場を歩く。ミラベル庭園を行き、疲れてcafe「モーツアルト」に入り、昼食をとった。客の少ない静かな店だったので、生気を取り戻した。
夕方マリオネット劇場で人形劇「魔笛」をみた。
モーツアルテゥムに行ったが、一般人は入館禁止。扉を押したらすんなり開いたので、不法侵入し、玄関内で奥から聞こえてくる弦の音に耳を澄ませた後、退散した。




後方がモーツアルトの生家
モーツアルテゥム




2014年11月8日土曜日




モーツアルトの家(後方)
ザルツブルグを訪ねて

ウィーンでオペラを見た後、電車でモーツアルトの生誕地ザルツブルグに向かった。途中リンツを経由、車窓から街を伺った。交響曲36番「リンツ」はモーツァルトがザルツブルグからウィーンに帰る途中立ち寄り、書き上げた作品である。いま私は反対の経路をたどっているわけだ。「リンツ」は38番「プラハ」と共に私の最も愛好するシンフォニーで、スゥイトナー指揮のバイエルンSO.LP盤の演奏がいい。夢想にふけるうちに駅につきタクシーでホテルに行く。
モーツアルテゥーム



休憩後、ホ―エンザルツブルグに登り,城から街を眺める.生家に行き、観光客にあふれている部屋等を見た。そして魔笛の小屋と、名物人形劇を観る。モーツアルテゥムに行ったが一般人の入館は禁止されていたが扉を押すと戸がすんなり開いたので入って記念撮影をする。奥から学生の奏でる弦が聴こえた。フロレオポルズクローン宮殿にゆき、大きな池越しにアルプスの山並みを見る。カラヤンの住居も近いらしい。
静寂な、閑静な場所だ。大きな池とその背景にアルプスがそそり立つ。雪が残り寒い。人影もない。



フルレオポリズからアルプスがみえる。
リンツ

 
 


2014年11月6日木曜日

配役表と入場券
マリオネット・魔笛ザルツブルクで    1986.10.29
ザルツブルク名物の人形劇を見学した。魔笛だった。配役表が付いている。日本の歌舞伎役者みたいだ。
スピーカーが、やたら大きく聞こえた。観光の人々が多いようだった。帰り道の石畳の道をゆき、角のレストラン{モーツアルト」で、ウィーンナシュツェルを取る。落ち着いたいい店で気が安らいだ。客は我々だけだった。

続いてフローレオポルスクロース宮殿まで足を延ばし、大きい池越しにアルプスの雪山を見る。絶景である。。カラヤンの住居も近い場所だ。


ザルツブルグでの奥様:山が見えればご機嫌(フロレオポルズクローン宮殿から)








2014年11月4日火曜日

ベートーヴェンを慕う

ベートーヴェンは、わが青春の悲哀、歓喜、躍動につながり、いまも消えることはなく、生きつずけている。
2万人参列の葬儀

特にシンホニ―英雄・運命・田園・7番・9番は、フルトヴェングラー指揮の演奏で聴き惚れた。5番・運命の作曲時には、すでに聴覚を失っていたが、音響は何処で、如何に、唱っていたのだろうか。
1961年私はハイリゲンシュタットの遺書の家(ベートーヴェンハウス)へ行き、さらに1987年家人とその場所に立った。彼は少なくともウィーンで80回も引っ越した。
ウィーンの森に近いこの家で幾多の名作を書いたが、彼を満足させた周囲の美観は残されていた。

ベートーヴェンは、文豪ゲーテやモーツァルトにも会っているが、常に尊大な態度であったという。ベートーヴェンが散策した「ベートーヴェンの小径」はその景観を保ち、訪れる人も多い。ハイリゲンシュタットの小道を背を丸め、後ろ手で歩くベートーヴェンを想像しながら森を散策した。人影はなかった。
帰路ハイリゲンシュタットのホイリゲで、家人、キャサリン嬢とワインを飲み酔っぱらった。

ハイリゲンシュタットの展望





プラハ国立劇場オペラ「ドン・ジョヴァンニ」を観る

オーチャードホール1995.2.3

指揮:オリヴェル・ドホナーニ

指揮ドホナーニ
演奏:プラハ国立劇場オペラの管弦楽団、合唱団、バレ団

配役:

ドン・ジョヴァンニ/アンドレイ・べスチャストニイ

騎士長/イジ―・カレンドフスキー

ドンナ・アンナ/へレナ・カウポヴァ

ドン・オッタ―ヴィオ/シュテファン・マルギ―タ

ドンナ・エルヴィーラ/りーヴィア・アーゴヴァ

レポレロ/ルジェック・ヴェレ

マゼッ/アレシ・へンドレフ

ツェルリ―ナ/アリツェ・ランドヴァ

スメタナ、ドヴォルザークを生んだチェコ、そしてプラハ音楽祭のプラハ、プラハはお伽の街だ。
スメタナの「我が祖国」、ドヴォルザークの「ドウムキ―」は私の愛する室内楽曲だが、同時にモーツアルト交響曲38番プラハももっとも好きなモーツァルトの交響曲だ。小説「プラハの春」も面白かった。この女主人公がいい、聡明で、しかも美人である、

話はそれたが、「ドン・ジョバンニ」は、プラハで初演され、モーツァルト自身が指揮をした。プラハの民衆はこぞって支持し、公演は大成功であった。プラハの聴衆は世界に先駆けて、いくつかの
名作を認めている。

2014年11月2日日曜日

ワグナーを訪ねて


ワグナー館裏口で
 ワグナー美術館を訪ねる 
 
 ルッツェルンで、地図と観光ガイドの本をもち、バスに乗り出かけた。バスストップで降りたが案内の標識が何もないので、妻と相談し多分この道だと見当をつけて歩く。 細くて長い小道だ。途中,二人ばかりの人に出会っただけの寂しい街道をゆき、ワグナー館に30分でたどり着いた。

 
ワグナー館の大樹(指輪の大樹?)
 「R.ワグナー美術館」 と表示されている。 湖畔にあり、居間から、水面が見える。 彼の愛用ピアノもあった。 この家で、{神々のたそがれ}と「マイスター・ジンガ―」を作曲した。 私は、いわゆるワグネリアンではないが、ワグナー特有の響きは大好きだ。

 横浜で全曲をベルリン・オペラできき、感激したがこのような静かな湖畔から生まれたとは意外であった。

遠山一行氏のレクチャーを聴講


ベルリンオペラでマイスタージンガー
横浜で4晩の連続演奏を聴く

 


 
貧窮のワグナーは、裕福なパトロンからこの館を借りた。そのパトロン夫人が、リストの娘コジマであった。美人のコジマとワグナーは道ならぬこ恋に落ちたが、悲恋に終わった。
後にワグナーは「トリスタンとイゾルデ」を作曲し、「その愛と死」という名作を生んだ。最終楽章のあの引き裂かれてゆく愛の旋律は、ワグナーの心底からの叫びでもあったろう。最後のロ長調の和音はロマン派音楽の最終を告げていると言われる。

 余談だが                                                                    居間で落ちついて「指輪」全部を見ようとDVDを購入した。大部で20万円を払った。先日中古レコー屋で、同じものが、6500円で出ていてびっくりした。おそらく売るとなれば4~5000円だ。ワグナーも、罪深い人だ!





2014年10月30日木曜日

モーツァルト礼賛

Ⅰ。アンリ・ゲオンの場合


932年、アンリ・ゲオンは名著「モーツァルトとの散歩」を世に問うた。


5歳から死去する35歳までのモーツァルトを透徹した頭脳と、温かい心で分析し、バッハとベートーヴェンの谷間に幼児扱いされていたモーツァルトを新生させた。
1960年代、高橋英郎の名訳で日本でも発刊され、愛好者の注目をあびた。小林秀雄もゲオンを熟読し、「モーツアルト」を書いた。
世界中のモーツアルトファンの必読の書といえる。


モーツァルトの音楽の本質を、悲しさ、速さだと看破した最初の人は、ゲオンである。ゲオンは弦楽五重奏曲ト短調(K.516)の冒頭部アレグロの最高の力感のうちにはじまる耳新しい音を取り上げる。


「それはある種の表現しがたい苦脳で、テンポの速さと対照をなしている。足取りの軽い悲しさ(tristesse  allegre)とも言える。それはモーツァルトにしか存在せず、思うに、魂を満たす極めて赤裸な、いとも純粋な音である」モーツァルトはすっかり新たな装いで飛び出たのである。


ゲオンは、ほぼモーツァルトの全曲に亘って一曲ごとに彼の抱く思索・夢を書いている。面白い。私の座右の本であり、いまや手垢に染まっている

2014年10月28日火曜日

モーツァルト礼賛

Ⅱ。小林秀雄の場合

モーツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裏に玩弄するには美しすぎる。


空の青さや海の匂いの様に、萬葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モーツアルトの後にも先にもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足取りは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引きずっていないだけだ。


彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっちあげた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。


追記
小林秀雄は、日本での最初のモーツアルトの研究・理解者であった(昭和初期大岡昇平の文献があるが)第二次大戦中彼は文筆発表を停止し、アンリ・ゲオンの書を読み感銘をうけ、「モーツアルト」の執筆にかかり、4~5年推敲を重ねたという。


「モーツアルト」発表前、彼は伊豆に遊んだ。その時伊豆の嵐のあとの海と空に、モーツアルトが音楽の微粒子となって、宇宙に飛び跳ねて行くのを経験した、と書いた。
「僕は、その時、モーツアルトの音楽の精巧明碩な形式で一杯になった精神で、この無定形な自然を見つめていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るものではなかった。海の方から、山の方からやって来た」
 そして名著「モーツアルト」が戦後発刊されたのである。

2014年10月27日月曜日

小澤征爾・ムローバ演奏会を聴く

   サントリーホール  1987.9.24

出演:新日本フィルハーモニア交響樂団

ヴィオリン独奏:ヴィクトリア・ムロ―ヴァ

演題
ブラームス 交響曲第4番ホ短調 作品98

ブラームス ヴァイオリン協奏曲ニ長調OP.77

たまたま、小澤征爾氏の現在の奥様の隣席に座った。小澤征爾のブラームスに対する執念が伝わってくる名演だった。
ムロ―バは小沢・ボストンとの組み合わせでモントリオールのレコード大賞を得て、世に認められた。

ムローヴァ
ムローバは、厳しく強靭だった。ブラームスよりベートーベンが適応していると思った。新日本フィルは、少々の縁があり、毎月定期のリハーサルを聴いているが、小沢征爾が指導していて、弦樂は将来性に富んでいると思う。当日の演奏につき音楽評論家・中河原理の当夜の記事があった。(朝日・夕刊)

蛇足だが実は2012年の昨日、新日本フィルのブラームス4番を聴いた。聴いたと言っても2日後サントリーホールで演奏予定のリハーサルを聴いた。指揮者は若きウィーン出のクリスチャン・アルミングである。第1楽章の繰り返される主題の旋律のうつくしさに酔った。ブラームスの音の響きには、独特の哀愁が漂って、そして残響が残る。

2014年10月26日日曜日

モーツァルト礼賛

Ⅲ。高橋英夫の場合


ゲオン、小林秀雄に比するのには、異論があろう。しかし前両者を比較論評しながらの彼の人生論が楽しい。彼の40番
シンフォニー論に耳を傾けてみよう。


モーツァルトの音楽の中にまぎれ込んだ「思想」は聴きわけにくいが、もう一度耳を澄ますと「彼は万物は流転する」と歌っている。優美な万物流転だ。この優美さ・・・
それを、ト短調に包み込んだ明るさ、と言い換えよう・・・のために、モーツァルトは万物流転は死という終点に帰着しないのだ。


モーツァルトにとり、死は通過するものではあっても、帰着するものではなかった。全体として苛烈な「死」のくぐり抜けであったト短調は、フィナーレでそこを抜け、生に還ったと受けとめる事が出来る。音楽は最後に死から戻ってくるのだ。


モーツァルトという人間が、神にゆだねられてゆく死を知っていたことは疑いない。しかし、モーツァルトにとり、彼の音楽が彼の死とともに無くなることでは決して無かったのである。

2014年10月24日金曜日

私のクラシック音楽の旅:


居間よりリョウブの芽吹きを見る
 
 山中に憩う  信州の旅no.117号掲載の拙文:「山中に憩う」より

(私は仕事で信州で暮らしたことがあり、その折、山中に掘立小屋を建てた。)

都会の喧騒から抜け出し、静寂の雑木林に身を置くと、人間の小賢しい思考など何処かへ

消え失せて、裸になって自然と対峙したいという望みに駆られる。「年々歳歳花相似たり」というが、時々刻々移ろう四季の営みの精巧さに驚嘆の日々を送るのは無為なことではない。
春、雪のアルプスを背に「こぶし」、「桜」、「あんず」一斉に開花する安曇野の山里。
我が草庵の辺りでは群生する「リョウブ」が可憐な芽吹きを演出して春の到来を告げる。
まず二ミリ大の芽が冬の裸枝の最先端に花蕾ように現れ、春空にポッカリ浮かぶ。
約2週間で10センチ大の若葉に開き終わるまで、窓を額縁とした幽玄な小宇宙を展開する。
春の歓びに新生する生命を実感する時だ。

夏、下界が30度を超える暑さでも、標高1000メートル近い草庵は、高山の冷気に満ち、汗ばむことのない別天地だ。強い光の織りなす樹木の陰影、滝のごとく降る
夕立、樹木にかかる霧、鋭光を放つ月と星は、楽しい川遊びとともに子供たちにどんな想い出を残したろうか。

秋、訪れは早い。落葉樹の色彩が千変万化する。紅葉の旬は10日間ぐらいだろうか。風が起こり落葉松の葉が間断なく雨のように降る。

静かな秋陽の日には、落ち葉の舞い散る微妙で甘美な調和音が心に沁みる。
時折山奥からおしよせる突風は樹幹を弓なりにゆさぶり山全体が唸りをあげて奔放に荒れ狂う。
山荘が小舟のように揺れているように錯覚する。
自然が奏でる音楽は多彩で、飽きることがない。

ここは、また小鳥たちの楽園である。セキレイ、アカゲラ,駒鳥、ミソサザイ、コガラ、など枚挙にいとまがない。小鳥と共に過ごすようになって彼らがモーツァルトの愛好者であることに気が付いた。私は大きなスピーカを持ち込んで、楽章の休止時に訪れる静寂に至福の時を見出しているが、モーツァルトのクインテットが戸外にながれ「疾走する哀しみ」が樹間をさすらうと、何時しか小鳥たちが飛来し合唱をはじめている。不思議なことだ。ベートーヴェンやブラームスでは集まらない。

ドラクロアは自然は一冊の辞書だといったが、古来自然から人生を会得した識者は多いと聞く。しかし私について言えば、自然に還ろうとして愚かな自分との格闘に終始することの繰り返しであった。自立した自由な心の人間になるためには、ほどんと無限の時が必要なのだろうか。今は、その過程をいとおしむことが山中の憩いだとわりきっている。

近年、それぞれ独り立ちした子供達が、孫をつれて遊びに来る。
自分達の幼時の想い出を孫に告げながら・・・。
この草庵が家族の安らぎの場として永劫に美しい自然とともに存在することを願う今日この頃である。

森と音楽とモーツァルトは私の心の財宝である。

音楽は森に流れ、海には無い、私はそう思う。森の静寂の中を散歩すれば音楽が聴こえてくるが、海辺では繰りかえす波の音のみ聞こえて空しい。静寂と自由とは最大の財宝なのだ。
ベートーヴェンは言う・・・森の中の全能者よ!森にいて私は幸福である。一つ一つの樹が神よ御身を通じて語る。おお、神よ、何たるすばらしさ!この森の高いところに静かさがある・・

私は、アンリ・ゲオンの下記の文が好きだ。(モーツァルトとの散歩より)

 <モーツアルトの心は、彼が知り尽くし、あらゆるさえずりを聴きわけ、思いのままに歌わせたり、黙らせたりできる小鳥たちでいっぱいの森であった。彼が満足するまで、彼らに森の調べを繰りかえさせる。ここに伸ばした音、あそこにココラトゥ―ラ・・・・いや、あれはまだだめだ。
もう一度やりなおしだ。それぞれに新たに樂想が固まってくるにつれて、前のを消してゆく。まだもう少しの辛抱だ・・・。こうしてやっとシンフォニーがきれいに出来上がるのである。
着想と制作の速さから、われわれは勝手な推論をするよりほかない。モーツアルトの森はけっして歌うことをやめなかったし、彼の心はかたときも音楽を離れなかった。霊感はどこまでで終わり、計算はどこからはじまったのだろうか?楽しみや、苦しみはどこにあったのだろうか?>

天才と技量は渾然と溶け合っていて、ひとつの傑作がどれほど彼に犠牲を強いていたか、我々にとても測り知れないだろう。あの傑作のなかに、どれほどの偽作があり、どれだけが彼自身のものかも永久に知るすべはないであろう。

なぜならば、彼はー先天的であろうと後天的であろうと、天分によろうと努力の末であろうと、自己のうちに、宇宙のあらゆる音楽をもっていたのだから。>
EAR,TANNOY,MACINTOSH,THORENS,CARDAS
こうして、モーツァルトと音楽と森は、我が生の憩いの中核を成している。


























2014年10月22日水曜日

モーツアルトの短調

<モーツアルトの旋律は疾走する。アンダンテの哀しみは,宇宙をさまよい消え去る。涙はその速さに追いつけない。>  小林秀雄は短調の作品に涙する。

ゲオンは、モーツァルトの短調のなかに「allegre tristesse」「爽やかな悲しさ」が存在すると言う。モーツアルトは自己のうちに、宇宙のあらゆる音楽を持つていたのだ。
(モーツアルトとの散歩より)

ゲオンにしろ、小林にしろ、モーツアルト讃歌は揺るぎないが、その調べの中には共通して、現代れわれが失ったある種の音調があることに気ずくのである。

特にモーツアルトの短調作品のK.466,K.491ピアノ協奏曲。K.516弦楽五重奏曲。K.550交響楽40番。これらの曲きくたびに、自分の存在が宇宙とも一体化し安定した気持ちになる。
試みに私は、モーツァルトの短調の作品を列挙してみた。

モーツアルトの短調

1764(8歳)  k.15  フーガ  ィ短調 
1765(9歳)  k.16a 交響曲 ィ短調
1768(12歳) k.60ヴァィオリン・ソナタ21番ハ短調
ヴァィオリン・ソナタ22番 ホ短調?
1769(13歳) k.65   ミサ・ブレヴィス  ニ短調
1771(15歳) k.90 キリエ  ニ短調 
k.22 ブルサム     ニ短調
1773(17歳) K.173 弦楽四重奏曲第13番 ニ短調
K.183 交響曲第25番  ト短調
1778(22歳) K.310 ピアノソナタ第8番ィ短調
1780(24歳) k.390 リート「希望に寄せて」ニ短調
1781(25歳) k.341 キリエ  ニ短調
K.360 ピアノとヴァイオリンのための6っの変奏曲  ト短調
1782(26歳) k.229カノン ハ短調
K.230 カノンハ短調 
K.383c ピアノのためのフーガ へ短調
k.383d 全  上 ハ短調
k.384a セレナーデ12番ハ短調
k.384b アンダンテ   ハ短調
k.397  ピアノのための幻想曲 ニ短調
K.385h K.385f
1783(27歳) k.427  ハ短調ミサ(未完)
k.421  弦楽四重奏曲第15番 ニ短調
(ハイドンセット2番)
k.426  2台4手のピアノのためのフーガハ短調
k.453a   葬送行進曲  ハ短調
1785(29歳) k.466  ピアノ協奏曲20番 ニ短調
k.475 ピアノのための幻想曲 ハ短調
k.478 ピアノ4重奏曲      ト短調
k.477 フリーメーソンの葬送音楽 ハ短調
1786(30歳) K.491 ピアノ協奏曲24番  ハ短調
1787(31歳) K.511 ピアノのためのロンド ィ短調
k.515c 弦楽五重奏曲  ィ短調
K.516a.b 弦楽五重奏曲  ト・ハ短調
k.517  リート「老婆」  ホ短調
k.524 リート「クローエに」ホ短調
     1788(32歳) k.546 弦楽四重奏曲第27番 ハ短調
k.550交響曲第40番  ト短調
k.555 カノン「私は涙もろい」 ィ短調
k.557 カノン「我太陽はかくれ」へ短調
1789(33歳)  k.593a オルガンの為のアダージョ ニ短調
k.594  オルガンのための幻想曲へ短調
1791(35歳)  k.603 オルガンのためのアレグロへ短調
  k.617    管弦楽のためのアダージョ ハ短調
魔笛 成功
k.626 レクイエム ニ短調(ジェスマイアー補完)
           「 日本モーツアルト協会:モーツアルト作品総目録より作成」

モーツアルトの全作品626中、短調作品は50に満たないが、それらはいずれも、哀しさを超えて天空に漂う「疾走するモーツァルト」の代表作となってるのは特筆に値いする。

                                     


 
 




     






   






                   



2014年10月20日月曜日

私の青春時代の世相と音楽界を追想する

Ⅰ。1960年代の追想
  1.  安保闘争で日本中が揺れていた。
  2.  核家族が崩壊し、高度経済成長期に移行
  3.  「上を向いて歩こう}「ス―ダラ節」が流行
  4.  固定為替制で1ドル360円
  5.  観光ビザ禁止(63年解禁)
音楽界
     61年 東京文化会館オープン
     62年 ブルノ・ワルター没
     63年 日生劇場オープン;ドイツオペラ開催
     65年 ポリーニにつずきアルゲルッチ・ショパンコンクール優勝
     66年 カラヤン来日
     67~ バーンスタイン:マーラ全集完成、NHKイタリア・オペラシリーズ4年      
          間、、グレン・グールド録音最盛期、
Ⅱ。1970年代の追想
  1. 高度経済成長期がボスト成長期に入った。 
  2. 夢の時代から、虚構の時代となった。 
  3. オイルショック(1973年)を経て、世界の総人口はマイナスに転じ,優しさが求められた。 
  4. 父の死は1970年、私の身辺も大きく変化した。音楽の好みも室内楽愛好者となった。 
  5. この時代は、オーディオを研究し、音質の表現の再生に時を費やした。          
音楽関係
  70年
    小沢征爾サンフランシスコSO.の音楽監督就任                        
    アルゲリッチとブレンデル初来日                             
  71年
    サヴァリッシュ:バイエルン国立歌劇場の音楽監督就任
  73年
    小沢ボストンSO.の音楽監督就任                               
    カルロス・クライバー初録音                               
  74年 
    ポリーニ初来日                                          
    ベーム/ウィーンPO.初来日                              
  75年
    ツイマーマン:ショパンコンクール優勝、                      
  76年
    ケンペ没                                         
  77年
    マリア・カラス没、                                     
  78年
    ツイマーマン初来日                                    
  79年
    ソニーがウオークマン発売、

2014年10月18日土曜日

Ⅲ。1980年代の追想
  1. 虚構の時代はまだ続いている。不安はよぎったが、楽感していた。
  2. やたら多い演奏会に辟易しつつ、心から聞きたい音楽会を選ぶ。2回(1986年、1989年)ウィーンで音楽を聴く。音楽が途切れると、肌が乾燥し、ザラザラする。やがて肌のみか心臓にまで到達する様に思える。
  3. 分衆の時代に入る。音楽の享受も多様化した。
  4. 母が死去。最後まで浄土真宗に生き、親鸞に殉じた生涯だった。                                                                         
音楽関係:                    
      80年  
        ジョン・レノン射殺さる                                            
        C.クライバー;ブラームス4番録音                                    
        ウィーン国立歌劇場初来日                                  
      81年    
        カール・リヒター没、                                            
        ミラノ・スカラ座初来日、                                     
      82年  
ムロ―バ;チャイコスキー・コンクールで優勝                              
        グレン・グールド没                                         
      83年     
        ホロヴィツ初来日                                      
      84年     
        内田光子;モーツアルト・ピアノソナタ全集発売                          
        「内田のモーツアルト」の批評確立、                                        
        マーラーブーム起こるイスラエルPO.来日、           
      86年     
        C.クライバーバイエルン国立歌劇場O.と来日                          
        サントリーホール開場                                         
、       アムステルダム・コンチェルトへボーO.来日                           
、       アルバンベルグQ.モーツアルト弦楽四重奏曲集完成                    
、       カラヤン&ベルリンPO.と最後の来日日                           、
        テンシュテット&ロンドンPO.来日                          
     88年    
        ミラノ・スカラ座来日                                           
        クライバー「ボェ―ム」を指揮                                      
        オーチャード・ホール開場                                 
     89年      
        サイトウ・キネンO.欧米演奏ツアー     

2014年10月16日木曜日

Ⅳ。1990年代の追想1991年虚構のバブルは崩壊した。
  1. 混乱の中、オーム事件、阪神大震災が勃発。
  2. 人は「優しさを取り戻したい」と願うようになってきた。
  3. 私の身辺雑事も多くなった。なかでも私の病気は思っていたよりも速く進行していた。入退院を繰り返している間に、3人の子供達は結婚し、3人の可愛い孫が誕生した。
  4. 時が速く回り始めたように感じた。

音楽関係(音源の大供給時代始まる。)

      90年      

        諏訪内晶子;チャイコスキーコンクール優勝)

        バーンスタイン没(’90)

     91年

       アラウ没、ルドルフ・ゼルキン没、

       ベルチーニ;マーラー・チクルスを日本;サントリーホールで行う。

       モーツアルト;没後200年記念行事多数   

    92年

       松本でサイトウ・キネン・オーケストラ開始 

   

    94年

       C・クライバー最後の来日「ばらの騎士」を指揮

    95年

       朝比奈隆;ブルックナー全集完成                                         

    96年

       ウエストミンスターLPをCD化                             

    97年

       リヒテル没 

新国立劇場開館   
      98年

       テンシュテット没

       ウィーン国立歌劇場音楽監督に小沢征爾が選ばれる