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シンフォニー論に耳を傾けてみよう。
モーツァルトの音楽の中にまぎれ込んだ「思想」は聴きわけにくいが、もう一度耳を澄ますと「彼は万物は流転する」と歌っている。優美な万物流転だ。この優美さ・・・
それを、ト短調に包み込んだ明るさ、と言い換えよう・・・のために、モーツァルトは万物流転は死という終点に帰着しないのだ。
モーツァルトにとり、死は通過するものではあっても、帰着するものではなかった。全体として苛烈な「死」のくぐり抜けであったト短調は、フィナーレでそこを抜け、生に還ったと受けとめる事が出来る。音楽は最後に死から戻ってくるのだ。
モーツァルトという人間が、神にゆだねられてゆく死を知っていたことは疑いない。しかし、モーツァルトにとり、彼の音楽が彼の死とともに無くなることでは決して無かったのである。