2014年11月12日水曜日

私の音楽風土

そのⅠ・・・青春時代

「ベートーヴェンは、バックハウスがいいネ」
この一言が頭に残った。小学校低学年の私に、友人が言った言葉だった。 当時ベートーヴェンの名は知っていたが、バックハウスがピアノの巨匠であることなど名前も知らなかった。自宅では、手回しの蓄音機があり、鉄針で童謡を歌っていた頃だ。

未知の世界への興味が,誘惑となり、音楽が生活の一部に入ってきた。
上京し、大学生となった私は、当時盛んに催し物をしていた「東京労音」に会員登録した。本部が有楽町のガード近くにあり、クラシック音楽のLPを1週間無料で貸してくれるのを利用し、傷だらけのLPを自宅のプレーヤで聴きつずけた。たしか・・・名盤100選(野村氏)という本に従っていた。

私の音楽の旅の源流はこうして生まれ、土壌としての身体に浸み込んだらしい.。

先ずモーツアルトが好きになった。成立初期の{日本モーツアルト協会」のK.405会員となった。モーツアルト協会は、会員数が626名(モーツアルトの生涯作品数)で、世界各国にもある国際組織である。、1ヶ月に1回例会があり、ナマの音に接する機会が増えた。またN響の定期演奏会の会員にもなり、スウィトナー指揮のモーツァルトに聴き惚れた。

蛇足だが、妻も両会に入会しており、日本モーツアルト協会には私より早く入会していたことが結婚後判明した。「音楽は私の方が先輩ョ」といまだに威張っている。同じ会場で同じ音楽を聴いて育って(?)いたとは!そんな事を知らずに結婚した。・・・嗚呼、世間は厳しいし、狭いナ・・・

ナマの音楽といえば学生時代、神楽坂に下宿していたが、私のレコードの音が通路に漏れていたらしい。通行人の一人に、近くに住む高名の作曲家のお嬢さんがいて、音楽好きの学生ということで、ご自宅に招待され食事を頂いた。爾来その作曲家へ来る招待券が私に回され、私が代理を務め、演奏会に行き、耳をこやした。懐かしい思い出である。何時しか音楽を聴くことが生活の一部となった。

識者丸山真男はいう。「学問的真理の無力さは、北極星の無力さと似ている。北極星は道に迷った旅人に直接には手を取って導いてはくれない。しかし、北極星はいかなる旅人にも、ある方向を示すしるしとなる。旅人は自らの決断と責任で自己の途を求める。」と・・・(丸山真男著;自己内対話より)

私の人生の標の一つを、天空の北極星としての音樂に見出したい。私の命の通奏低音として・・・という意識が生まれたのは、だいぶん後のことであった。


        (モーツァルトの影絵)
そのⅡ・・・モーツアルトへの巡礼


1997年 モーツアルトの二つの墓に献花し、永年の想いを果たした。
最初に、ステファン聖堂の裏にあるフィガロハウスにいったが、公開日でなく、玄関で引き帰った。
別の日、予て知己のキャサリン嬢(ウィーン大学生、現在は弁護士)に案内され、墓参し、献花を果たした。

中央墓地のモーツアルトの墓に献花する
まず、モーツアルトが埋められたとされるマルクス墓地で献花した。
マルクス墓地は、ウィーンに住むキャサリン嬢も行ったことがなく、モーツアルトの埋葬実話も知らないという。訪れる人は少ないと推察した。
記念墓地の中央墓地は、訪れる人は多い。ここには、ウィーンに縁のある音楽家の墓が夫々のデザインで並んでいて、楽しい墓地だ。これらの音楽家の曲の多様性を暗示するかのように多様である。それにしても、マルクス墓地のモーツアルトは寂しく感じる。死の直前まで、弟子ジェスマイァーに口述しながら、レクイエムを作曲し完成、そしてレクイエムは、自身のための最後の曲となった。


雨中、見送り人は皆無で、共同墓地に埋められたのである。(その日は晴天であったらしいことが、最近の研究で判明した)
ベートーヴェンは、2万人のウィーン市民に見送られ国葬のように、その一生を終えたのに!
マルクス墓地の記念碑と墓 


初めてモーツアルトのあまたの住所を調べあげようとしたヴルツバッハの言葉を借りれば、「聖マルクス墓地とゆう名の最後のもっとも狭い住居へ」移って行ったのだった。


「モーツアルトは、この地上の客にすぎなかったということはある程度真実である。このことは最も高い、最も精神的な意味で妥当である。
彼に関する地上的なものは、何枚かのみじめな肖像画のほかには残っていないし、デスマスクもすべて壊れてしまったということと共に象徴的で、いっさいの混沌たる地上性の克服を意味し、純粋な音響のみが残されている・・・そしてそれは未来永劫に消えさることはないだろう。」--(アインシュタイン;「モーツアルト」より引用)

この日は、小雨の一日であった。夜ウィーン・オペラを鑑賞し、翌日電車でモーツァルトの生誕地ザルツブルグに向かった。