Ⅰ。アンリ・ゲオンの場合
1932年、アンリ・ゲオンは名著「モーツァルトとの散歩」を世に問うた。
5歳から死去する35歳までのモーツァルトを透徹した頭脳と、温かい心で分析し、バッハとベートーヴェンの谷間に幼児扱いされていたモーツァルトを新生させた。
1960年代、高橋英郎の名訳で日本でも発刊され、愛好者の注目をあびた。小林秀雄もゲオンを熟読し、「モーツアルト」を書いた。
世界中のモーツアルトファンの必読の書といえる。
モーツァルトの音楽の本質を、悲しさ、速さだと看破した最初の人は、ゲオンである。ゲオンは弦楽五重奏曲ト短調(K.516)の冒頭部アレグロの最高の力感のうちにはじまる耳新しい音を取り上げる。
「それはある種の表現しがたい苦脳で、テンポの速さと対照をなしている。足取りの軽い悲しさ(tristesse allegre)とも言える。それはモーツァルトにしか存在せず、思うに、魂を満たす極めて赤裸な、いとも純粋な音である」モーツァルトはすっかり新たな装いで飛び出たのである。
ゲオンは、ほぼモーツァルトの全曲に亘って一曲ごとに彼の抱く思索・夢を書いている。面白い。私の座右の本であり、いまや手垢に染まっている。