2014年10月24日金曜日

私のクラシック音楽の旅:


居間よりリョウブの芽吹きを見る
 
 山中に憩う  信州の旅no.117号掲載の拙文:「山中に憩う」より

(私は仕事で信州で暮らしたことがあり、その折、山中に掘立小屋を建てた。)

都会の喧騒から抜け出し、静寂の雑木林に身を置くと、人間の小賢しい思考など何処かへ

消え失せて、裸になって自然と対峙したいという望みに駆られる。「年々歳歳花相似たり」というが、時々刻々移ろう四季の営みの精巧さに驚嘆の日々を送るのは無為なことではない。
春、雪のアルプスを背に「こぶし」、「桜」、「あんず」一斉に開花する安曇野の山里。
我が草庵の辺りでは群生する「リョウブ」が可憐な芽吹きを演出して春の到来を告げる。
まず二ミリ大の芽が冬の裸枝の最先端に花蕾ように現れ、春空にポッカリ浮かぶ。
約2週間で10センチ大の若葉に開き終わるまで、窓を額縁とした幽玄な小宇宙を展開する。
春の歓びに新生する生命を実感する時だ。

夏、下界が30度を超える暑さでも、標高1000メートル近い草庵は、高山の冷気に満ち、汗ばむことのない別天地だ。強い光の織りなす樹木の陰影、滝のごとく降る
夕立、樹木にかかる霧、鋭光を放つ月と星は、楽しい川遊びとともに子供たちにどんな想い出を残したろうか。

秋、訪れは早い。落葉樹の色彩が千変万化する。紅葉の旬は10日間ぐらいだろうか。風が起こり落葉松の葉が間断なく雨のように降る。

静かな秋陽の日には、落ち葉の舞い散る微妙で甘美な調和音が心に沁みる。
時折山奥からおしよせる突風は樹幹を弓なりにゆさぶり山全体が唸りをあげて奔放に荒れ狂う。
山荘が小舟のように揺れているように錯覚する。
自然が奏でる音楽は多彩で、飽きることがない。

ここは、また小鳥たちの楽園である。セキレイ、アカゲラ,駒鳥、ミソサザイ、コガラ、など枚挙にいとまがない。小鳥と共に過ごすようになって彼らがモーツァルトの愛好者であることに気が付いた。私は大きなスピーカを持ち込んで、楽章の休止時に訪れる静寂に至福の時を見出しているが、モーツァルトのクインテットが戸外にながれ「疾走する哀しみ」が樹間をさすらうと、何時しか小鳥たちが飛来し合唱をはじめている。不思議なことだ。ベートーヴェンやブラームスでは集まらない。

ドラクロアは自然は一冊の辞書だといったが、古来自然から人生を会得した識者は多いと聞く。しかし私について言えば、自然に還ろうとして愚かな自分との格闘に終始することの繰り返しであった。自立した自由な心の人間になるためには、ほどんと無限の時が必要なのだろうか。今は、その過程をいとおしむことが山中の憩いだとわりきっている。

近年、それぞれ独り立ちした子供達が、孫をつれて遊びに来る。
自分達の幼時の想い出を孫に告げながら・・・。
この草庵が家族の安らぎの場として永劫に美しい自然とともに存在することを願う今日この頃である。

森と音楽とモーツァルトは私の心の財宝である。

音楽は森に流れ、海には無い、私はそう思う。森の静寂の中を散歩すれば音楽が聴こえてくるが、海辺では繰りかえす波の音のみ聞こえて空しい。静寂と自由とは最大の財宝なのだ。
ベートーヴェンは言う・・・森の中の全能者よ!森にいて私は幸福である。一つ一つの樹が神よ御身を通じて語る。おお、神よ、何たるすばらしさ!この森の高いところに静かさがある・・

私は、アンリ・ゲオンの下記の文が好きだ。(モーツァルトとの散歩より)

 <モーツアルトの心は、彼が知り尽くし、あらゆるさえずりを聴きわけ、思いのままに歌わせたり、黙らせたりできる小鳥たちでいっぱいの森であった。彼が満足するまで、彼らに森の調べを繰りかえさせる。ここに伸ばした音、あそこにココラトゥ―ラ・・・・いや、あれはまだだめだ。
もう一度やりなおしだ。それぞれに新たに樂想が固まってくるにつれて、前のを消してゆく。まだもう少しの辛抱だ・・・。こうしてやっとシンフォニーがきれいに出来上がるのである。
着想と制作の速さから、われわれは勝手な推論をするよりほかない。モーツアルトの森はけっして歌うことをやめなかったし、彼の心はかたときも音楽を離れなかった。霊感はどこまでで終わり、計算はどこからはじまったのだろうか?楽しみや、苦しみはどこにあったのだろうか?>

天才と技量は渾然と溶け合っていて、ひとつの傑作がどれほど彼に犠牲を強いていたか、我々にとても測り知れないだろう。あの傑作のなかに、どれほどの偽作があり、どれだけが彼自身のものかも永久に知るすべはないであろう。

なぜならば、彼はー先天的であろうと後天的であろうと、天分によろうと努力の末であろうと、自己のうちに、宇宙のあらゆる音楽をもっていたのだから。>
EAR,TANNOY,MACINTOSH,THORENS,CARDAS
こうして、モーツァルトと音楽と森は、我が生の憩いの中核を成している。