2015年4月25日土曜日

おわりに


                        おわりに
               

人間には、避けられない死という宿命が、音を聴く者に、哀しみと美しさを意識させる。だから音楽は、哀しみと美しさ表現する時、もっとも感動を引き起こす。すべて芸術は人間の生・死と向き合うと、哀しさと美しさが表われると思います。 

加齢の今、その宿命が(わが)()を襲い、その哀しみの情が音楽を聴くことを求め強要します。そして究極として<死とはあなたにとって何か>と問われ、<モーツァルトが聴けなくなることだ>と答えた人のように、音楽に対する恋慕がうまれてきます。 

音楽は、言語・文学・絵画より先に存在しました。宇宙誕生の時から存在していました。草原の間を抜け、大樹を揺るがす音、そして武満徹が愛した草の葉間を抜けるヒューという(かぜ)()(おん)、人間が考案する以前に自然が音楽を奏でていたのです。だから最も自然なるものが音楽でありました。 

「私のクラシック音楽の旅」は私の個人的な感情、感想の日記替り(がわり)のようなものと思っています。音楽は趣味ではなく生活習慣の一つとして処理しています。
喰って、寝て、歩行して、音楽を聴く、(すべ)て同じレベルであります。だから「私のクラシック音楽の旅」が知的とか高尚な趣味だと言われると、他人事に感じます。

瞬時に消え去ってゆく音楽に、私は限りのない憧憬を感じます。 

詩人ライナー・マリア・リルケは愛と死と神を自分の魂に聴き入りながら、美しく表現しています。

         <限りなき憧れの思いより>

   限りなき憧憬の中から、

   限りある行為が

   すぐにふるえながら折れ曲がる弱々しい噴水のように立ち上る。

   だがいつもは口を閉じて語らぬ。

   私の悦ばしい力が、この踊る涙のような、

   消え去る水のなかにあらわれる。

また、そんな情感を、詩人谷川俊太郎は美しく()んでいることを知りました。(「心」より引用

         <そのあと>

   そのあとがある

   大切な人を失ったあと

   もうあなたはないと思ったあと

   すべて終わったと知ったあとにも

      終わらないそのあとがある

   そのあとは一筋に

   霧の中へ消えている

   そのあとは限りなく

   青くひろがっている


   そのあとがある

   世界に そして 

   ひとりひとりの心に。                                


その  了

2015年4月20日月曜日

はじめに


高齢となった今、生きていてよかったと思う時があります。

詩人ホイットマンは「良い音楽や本に出会った時、あと700年生き延びてそれを極めたい」と言ったといいます。

最近同じ感慨が私を襲うことがあります。自己の生への止み難い欲望が私の中に潜在しつづけているようです。

所詮音楽的な感動・体験は個人的なものであります。

音楽は、私の生の中で生まれ、様々な感動を私に与え、浸透し、ひとときは離れ去っても、再び私に戻ってきました。

くも膜下出血で開頭手術を受け,生死をさまよい、屈折した心の後でも、「生きていてよかった」と思うことが多々ありましたが、そこには、音楽での感動の蘇りがありました。私は、その救いをバネにして生き永らえて来ました。もしそれらの感動が無ければ生きられなかったと言っても過言ではありません。

振り返ると、私の人生の貴重な時間の多くが、音楽に割かれ、彩りを添えてくれた事に気がつくのです。
生きている事の意味を求め、放浪の時、空間をさまよう時、音楽を聴くことが、自分を聴く事でもありました。

残された時間に限りが見えてきた今日、音楽は、私にとって有意義な啓示が聴こえて来る手段であり、実に、音楽を語ることは、私の唯一のカタルシスなのです。

「音楽は、一切の知恵・哲学よりも、さらに高い啓示をもたらす」とベートーヴェンは言いました。そうだ、音楽によって自分を聴き、奏でよう。
より高い啓示と、生を味わうために!